1/21・本日・【久女忌/ひさじょき】
東風吹くや耳現るるうなゐ髪
春潮に流るる藻あり矢の如く
冬の朝道々こぼす手桶(おけ)の水
熟れきつて裂け落つ李(すもも)紫に
朱欒(ザボン)咲く五月となれば日の光り
バナナ下げて子等に帰りし日暮かな
寸分の隙間うかがふ隙間風
汝を泣かせて心とけたる秋夜かな
ぬかづけばわれも善女や仏生会
本日、一月二十一日は、
俳人、杉田久女/すぎたひさじょ・・・・の忌日デス。

1890年~1946年、昭和21年(1946年)没。
享年57歳。
高浜虚子に師事。
近代俳句の最初期の女流俳人と言って良いでしょう。
高学歴ゆえか、教師であった夫との家庭不和。
また、「ホトトギス」の同人になるが、
師である高浜虚子との複雑?な、確執により、
1936年(昭和11年)には、理由不明のままに、
「ホトトギス」同人を除名されてしまいます・・・。
その後、不遇のまま逝ったと言われています。
性格はともかく(笑)、敬愛する俳人の一人です。
【谺して 山時鳥 ほしいまま/こだまして やまほととぎす ほしいまま】
杉田久女の魂の叫びの、命の言霊から出でた名句です。
雄大な句です。
自然との語らいの中、そして大きな苦悩の中から生まれました。
DE、久女は上の句。
《谺して山ほととぎす》まではスグ出来たらしいのですが・・・。
[ほしいまま]を搾り出すために何週間もかかったとかっ。
私は、俳句をつくる時に、たびたび久女のことを思い出します。
安易に作っていないか、その言葉でいいのか?
私も生きているウチに、このような、魂を揺さぶる、素晴らしい句を詠んでみたいデス。
この久女、なかなか気性が激しかったようで、悪口?やアテツケの句もたくさん詠んでいます(笑)
『虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯』
『喜べど木の実もおちず鐘涼し』
『我を捨て遊ぶ看護婦秋日かな』
【黛まどか】が、杉田久女に影響を受けで句作を始めたのは有名な話デス。
【久女忌】
久女忌の空に瑕瑾(かきん)のなかりけり/黛まどか
凜々と雛の瞳並ぶ久女の忌/寺井谷子
久女忌の雪胸もとに露天風呂/後藤杜見子
久女忌の髪むらさきにしてみたき/姉崎蕗子
大寒に入る日は晴れて久女の忌/石昌子
久女忌の雪胸もとに露天風呂/後藤杜見子
久女忌や掌中目覚むれもんの黄/櫛原希伊子
風花の貝のつめたき久女の忌/神尾久美子
二度咲きの胡蝶の如し久女の忌/小栗釣月
では最後に、虚子が「清艶高華」と評した彼女の句をいくつか・・・・。
風に落つ楊貴妃桜房のまま
紫陽花に秋冷いたる信濃かな
朝顔や濁り初めたる市の空
しろしろと花びらそりぬ月の菊
白妙の菊の枕をぬひ上げし
花衣ぬぐや纏(まつ)わる紐いろいろ
足袋つぐやノラともならず教師妻
夕顔に水仕(みずし)もすみてたたずめり
むれ落ちて楊貴妃桜尚あせず
久女の生涯は多くの作家が小説に書いています、興味のある方は是非。
1月20日~七十二候・その70[款冬華/ふきのはなさく]
蕗の薹見つけし今日はこれでよし/細見綾子
二十四節気の大寒・初候、款冬華。

款冬=蕗の薹DEあります。
凍てついた地面に蕗の花が咲き始める頃。
まだ雪が残り、寒風が吹いていても、
草花は春へ向けて準備を進めています。
私の地元で蕗の薹を見る事ができるのは、
早くて、二月の下旬か三月の上旬ですWA。

活断層ゆるめて蕗の薹出づる/千田百里
庭の辺の初のみどりや蕗の薹/能村登四郎
日溜りが日向に変り蕗の薹/星野高士
電文のみじかくつよし蕗のたう/田中裕明
水音にむらさき脱ぎし蕗の薹/稲岡長
失せ物は出て來ず蕗の薹ふたつ/中原道夫
蕗の薹空が面白うてならぬ/仲寒蟬
朝日さすいつもの畔の蕗の薹/小栗釣月

本日・2021/01/20・【大寒/だいかん】
寿永三年一月二十日・源義仲(木曾義仲)の命日。
義仲は、頼朝の命を受けた範頼と義経と争い、大津の地で討ち死にする。
あ~、巴御前のお話も良いネ~。

詳細は、『平家物語』をお読み下さい、朝日将軍(旭将軍)の名で登場。
さて、松尾芭蕉の遺言。
「骸(から)は木曽塚に送るべし」。
私の亡骸(死体)は、義仲寺(ぎちゅうじ)に埋葬して欲しい。
なぜ芭蕉は義仲寺を指定したのか?
たぶん、それは、芭蕉がホンモノの武士に憧れていた為でしょうネ。
そもそも、奥の細道は、西行への追慕(枕詞)と、兵のモノノアワレと、悲運の忠臣への哀悼の旅であっただろう。
芭蕉の本意はわからない・・・しかし、芭蕉ならば、義と情に厚い義仲を好まないはずはない。
芭蕉の終焉の地については、機会があれば詳しくお話したいデス。
義仲寺の芭蕉墓は慎ましい。


木曽殿と背中合わせの寒さかな/島崎又玄