「奥の細道/松尾芭蕉の足跡をめぐる旅 in 山形」のご説明案。
御社及び、ご担当者様からの要望で、
追加、削除、移動、いくらでも可能です、ご査収願います。
11月12日(日)
【山寺】立石寺(りっしゃくじ・古くは、りゅうしゃくじ)の手前でご挨拶。
小栗の簡単な自己紹介。
なぜ?芭蕉が奥の細道を計画したかちょっと話。
西行、歌枕、義経。
景観よりも武士としての想い・・・、
忠義に死んだ武将への追慕など。
奥の細道芭が、
現在まで話題が尽きない件の例として、
「奥の細道」芭蕉旅立ちの地論争の話をする。
芭蕉は46歳の時(元禄2年=1689年)、
弟子の河合曽良とともに、江戸の深川を出発。
問題は、
奥の細道に書かれている「千住といふ所」は、
で、ありまして・・・現在の千住大橋付近と見られ、
橋のどちら側かは現在のところわかっておらず、
北岸の足立区と、南岸の荒川区が、
「芭蕉旅立ちの地」をめぐって、
大論争を長きに渡り繰り広げている事。
本来の奥の細道の山形(出羽路)順路について簡単に説明・・・。
奥の細道、出羽路編は、
堺田からスタートし、尾花沢、天童、山寺、大石田、新庄、清川、羽黒山、月山、湯殿山、鶴岡、三崎山、温海で出羽路の旅を終える。
[仙台・平泉⇒鳴子温泉]
【尿前の関/しとまえのせき】(宮城県鳴子町)尿前の関の跡の説明板が鳴子駅にあるのみ。
~出羽路~
[新庄領・堺田]*【封人(ほうじん・関所の番人)の家】尿前の関守・有路(ありじ)家〔一泊〕。
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堺田を立ち、難路・山刀伐(なたぎり)峠を経て尾花沢へ。
この道程は奥の細道屈指の名文と言われており、天童タワーに碑文有。
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7月3日(旧暦五月十七日)到着[尾花沢/おばなざわ・古くはおばねざわ]*【芭蕉・清風歴史資料館】*鈴木清風宅〔三泊〕&養泉寺〔七泊〕*
鈴木清風〈39歳〉、名士・裕福な紅花問屋・大名貸し・俳諧師の宗匠[江戸で芭蕉と親交あり]
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7月13日(旧暦五月二十七日)到着[通称山寺・立石寺/りゅうしゃくじ]*【山寺・芭蕉記念館】*山寺の宿坊〔一泊〕*
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7月15日(旧暦五月二十九日)到着[大石田]*高野一栄(54歳)宅〔一泊〕*
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7月17日(旧暦六月一日)到着[新庄]*澁谷風流宅〔二泊〕*
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7月19日(旧暦六月三日)出発[清川・最上川/もがみがわ]*【芭蕉・乗船の地】
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村上市&胎内市での芭蕉の話もスル。
今回の旅日記のコースについて簡単に話す。
12日。
山寺・立石寺~天童タワー養泉寺~清風資料館~浅見温泉
13日。
最上川・芭蕉乗船の地~本間美術館~相馬楼~山居倉庫
以下、ポイントでの説明。
【山寺】立石寺の説明。
旧暦五月二十七日[新暦七月十三日]着。
当初立ち寄る予定ではなかったが、
鈴木清風等に薦められ、逆に引き返し、
清風の好意で馬で向かい巡礼する。
山寺で夕刻に詠んだ。
『閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声』
推敲して奥の細道の最高傑作、名句中の名句と呼ばれる。
後に、以下の様に推敲された。
山寺や石にしみつく蝉の声
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寂しさや岩にしみ込む蝉の声
↓
閑さや岩にしみ入る蝉の声
斎藤茂吉なども訪れており、
蕉門や詩人・俳人・歌人の聖地となっている。
奥の細道では、「荒海や佐渡によこたう天河」と双璧の句。
山寺蝉論争について話す。
この蝉ははたして何蝉?
歌人の齋藤茂吉のアブラゼミVSドイツ文学者の小宮豊隆のニイニイゼミ。
昭和5年8月初めの現地調査で捕獲されたのはほとんどはニイニイゼミ。
で、ニイニイゼミとなったが・・・。
ただ、芭蕉が山寺を訪れたのは新暦7月13日であるので、調査はかなり時期遅れ。
しかも、7月13日頃はヒグラシも鳴きます、芭蕉が聞いた蝉の鳴き声は、永遠の謎ですね。
山寺・芭蕉記念館
「世にふるも」句文懐紙~芭蕉筆 ~
句:「世にふるも更に宗祇のやどりかな/芭蕉」
この句は、「本歌取り/ほんかどり」である、しかも季語がないように読めるが、
以下の宗祇の句が本歌となるので、宗祇のやどり=時雨となる。
世にふる(降る・経る)も更(さら・意味はそのまま)に時雨のやどり(宿り)かな
~世にふるも更に時雨のやどりかな~
この世に生きるという事は、漂泊の連歌師・宗祇が、
「時雨の時の雨やどりの様だ」と詠んだ様に、諸行無常である。
ゆえに、私は、旅に生き、旅に死んでゆくのだ。
詩歌に無名だった立石寺・・・出羽国の山寺を高名たる歌枕した芭蕉の功績は大きい。
【将棋むら天童タワー】
松尾芭蕉が奥の細道で辿った山形の名勝を再現した「芭蕉庭園」。
山形で芭蕉が詠んだ句がほとんど碑となっている。
お客様の要望があれば句碑を解説します。
以下句碑。
奥の細道・尿前の関~山刀伐峠の一文
~高山森々として一鳥聲き、かず木の下闇茂りあひて夜る行がごとし
蚤虱馬の尿する枕もと/封人の家
眉はきを俤にして紅粉の花/尾花沢~天童
閑さや岩にしみ入蝉の聲/山寺
五月雨をあつめて早し最上川/大石田(高野一栄宅・連歌の発句)
水の奥氷室たずぬる柳かな/新庄(澁谷甚兵衛宅)
ありがたや雪をかをらす南谷/鶴岡(羽黒山南谷別院)
涼しさやほの三ヶ月の羽黒山/尾花沢(鈴木清風宅)
語られぬ湯殿にぬらす袂かな/湯殿山
雲の峰いくつ崩れて月の山/月山(角兵衛小屋)
珍らしや山を出羽の初茄子/羽黒山を下山後の民田なす
暑き日を海に入れたり最上川/酒田(安種亭寺島彦助宅・句会)
温海山や吹浦かけて夕涼み/酒田(最上川河口の袖の浦で舟遊びの吟)
象潟や雨に西施がねぶの花/秋田・象潟
現在、90%以上の将棋の駒を生産している天童市。
製造方法は、江戸時代末期とも中期に伝わったとも定かではありませんが、
奥の細道の時代にはあまり盛んではなかった様子です。
【養泉寺】
山寺立石寺と同じ慈覚大師を開祖とする天台宗の寺。
芭蕉が訪れた元禄2年は、養泉寺伽藍が大修理された翌年である。
鈴木清風より多大な寄付があったと予想される。
【芭蕉・清風資料館】
この時期、大手の紅花問屋の島田屋・鈴木清風宅は、
紅花の摘み取り作業が始まり、繁忙期に差し掛かり多忙を極めていたはず。
ゆえに清風の自宅での宿泊は三日のみだったと推測される。
紅花は山形県の県花。
今年2017年の山形紅花まつりは、7月8日(土)・9日(日)に開催された。
場所は、ジブリ映画「おもひでぽろぽろ」の舞台にもなった高瀬地区。
他、清風の江戸でのエピソードなど。
『紅餅の話』
清風は、京都、大阪、江戸へ【紅餅】を卸していた。
紅餅作りとは?
紅花の紅を取り出すための清風の時代の加工法。
以下、その手順。
1、収穫した紅花に水を加えてよく踏み、黄汁(ベニバナの黄色色素分)を溶かし出す。
2、ザルに移してよく水で洗い、黄汁を十分に流す。
3、1・2の作業肯定を繰り返し、よく黄汁を抜く。
4、日陰に寝かせ、二・三日おいて発酵させる。
5、酸化して粘り気を帯びた紅花を臼でつき、団子状に丸める。
6、丸めた紅花にムシロをかぶせて踏み、煎餅状にして天日で乾燥させる。
7、乾燥したものが紅餅(または花餅)・最上紅花は主にこの形で出荷する。
【浅見温泉】
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13日。
*最上川*【芭蕉・乗船の地】
最上川は、古くから歌枕、源義経ゆかりの川。
正岡子規も立ち寄っている。
「日本三大急流」の高名を得たのも芭蕉のお陰?
有名な『五月雨を集めて早し最上川』の解説。
7月15日(旧暦五月二十九日)、高野一栄宅の歌仙(連歌)についてアレコレ。
一栄などの請われて、俳諧連歌の会を催した芭蕉筆頭に、四名(芭蕉、一栄、曽良、川水)による、
「一巡四句」の発句として詠まれたものが、『五月雨を集めて早し最上川』。
一説には、芭蕉来訪を予定して自宅の大改修をしたとか・・・。
「一巡四句」
五月雨を集めて涼し最上川/芭蕉
岸にほたるを繋ぐ舟杭/一栄
瓜畑いざよふ空に影待ちて/曽良
里をむかひに桑の細道/川水
五月雨を集めて涼し最上川/芭蕉
~一栄様宅は最上川の辺にある快適な家でありこの時期に涼しくて良いですね。
こんな素晴しい所で連歌を催す事が出来て大変幸せです。
岸にほたるを繋ぐ舟杭/一栄
~松尾先生何を仰いますやら、
こんな粗末な田舎の我が家で連歌を催していただき感激しております。
新俳風を作り出す為の旅をしていらっしゃる、
大宗匠の松尾先生が、この地に新風を呼びんで頂きました。
その有難さは、闇に光を放つ「蛍」の如き御威光であります。
さしずめ、我が家などは、「蛍」を留める粗末な川沿いの杭の様なものでしかありません。
連歌の発句では、挨拶句でもあり、
『涼し』、と、したが、この数日後、実際に乗船して、
轟音濁流渦巻く最上川を本合海から清川まで下り、
この時の船旅の様子を・・・「水みなぎつて舟あやうし」と記し、
奥の細道の本稿には、思い出でからか?
~五月雨を集めて早し最上川~と置いた。
この後、一栄は蕉門入りし、伊勢で再会したとある。
また連歌の夜、
一栄は、芭蕉が「奥の細道」の旅の中で見出した、
蕉風俳諧の理念「不易流行」を、直接伝授されたと推測される。
~不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず~
「不易流行」~普遍的な詩心を学び、時代に合った新鮮な句を作りなさい。
他、ご質問があればその都度随時お答えする。
以上。