さて、聖夜は姉貴んトコで、酒宴です。
『クリぼっち』などと呼び始めたのは、
何時頃からだろうかぁ~。
アル統計によると、
今年の成人の『クリぼっち』は、
約50%程とかで、都会では超熱い?
『クリぼっち』商戦が繰り広げられている?
らしいけど・・・、まぁ、どうでも良いWA。

キリスト曰く・・・、
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
まぁ、このように残りの今年を、
馬鹿な妄想で悪魔に付込まれぬよう、
心静かに、慎む深く生きたいと思います。

あ、サンタさん。
あのね、
欲しいのはネ。
マーチンのD45と、
茶位のクラシックギターと、
Fストラトキャスターの22Fタイプと、
ローランドのアンプと、
それから、それから・・・。
旧暦十二月二十四日・【蕪村忌/ぶそんき】
春雨にぬれつつ屋根の手毬かな
菜の花や月は東に日は西に
高麗舟(こまぶね)のよらで過ぎゆく霞かな
旧暦、十二月二十四日は、
俳諧師であり画家の与謝蕪村の忌日です。
俳号は蕪村の他に「宰鳥」・「夜半亭(二世)」など、
画号は「春星」・「謝寅(しゃいん)」など。

享保元年(1716年)~天明3年12月25日(1784年1月17日)
もぅ~、偉大すぎてどこから説明すれば良いのかわかりません[笑]
略歴はこんな感じです。[サントリー美術館/若冲と蕪村のモノ借用]
大坂の農家に生まれ、20歳頃に江戸へ出て俳諧を学びます。
27歳の時、俳諧の師匠の逝去を機に、北関東や東北地方をおよそ10年間遊歴します。
その後40歳頃から京都へうつり俳諧と絵画のふたつの分野で活躍しました。
松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、
江戸俳諧中興の祖と言われています。
芭蕉~蕪村~子規と連なる、
三大俳聖[私のの勝手な]と言っても、
過言ではアリマセン。
蕪村がいなければ、
現在の俳句の隆盛はありえないでしょう。
また、俳画の創始者でもあり、
それゆえに、俳句と絵の融合を行い、

写実的とも絵画的とも称される、
俳風を作り上げます。
さらに、マンネリで俗物的な傾向にあった、
当時の俳諧を否定しながら、
『蕉風回帰』を唱え、
絵画用語である『離俗論』を句に適用して、
いわゆる天明調の俳諧を確立させた、
一番の功績者であります。
後に正岡子規は、
蕪村の俳諧革新に大きな影響受け、
明治の俳句大改革を行います。
子規の著書に『俳人蕪村』(講談社文芸文庫)があります。
【蕪村忌】&「春星忌」
蕪村忌に呉春が画きし蕪かな/正岡子規
蕪村忌や画中酔歩の李太白/水原秋櫻子
蕪村忌の心游ぶや京丹後/青木月斗
蕪村忌やをんなのすこし着飾りて/黒田杏子
鷹の羽を拾ひ蕪村の忌と思ひ/萩原麦草
母の句に甘き選者や春星忌/安住敦
街騒を潮騒と聴き蕪村の忌/鍵和田釉子
で、蕪村の代表的な句・・・、
う~ん、名句が多すぎて絞れない。
でで、有名な句を幾つか・・・。
ゆく春やおもたき琵琶の抱きごころ
やぶ入りの夢や小豆の煮えるうち
さしぬきを足でぬぐ夜や朧月
畑うつやうごかぬ雲もなくなりぬ
五月雨や大河を前に家二軒
夕風や水青鷺の脛をうつ
不二(ふじ・富士山)ひとつうづみ残して若葉かな
朝顔や一輪深き淵のいろ
月天心(つきてんしん)貧しき町を通りけり
白露や茨の刺にひとつづつ
山は暮れて野は黄昏の薄かな
あ~、なんて素晴しい、
きりがないのでやめますが、
すべて映画のワンカットのようでありますネ。
最後に、
蕪村の辞世の一つといわれている一句を・・・・。
「白梅に明くる夜ばかりとなりにけり」

機会があれば蕪村の俳画についてもお話しましょう。
