旧暦十二月二十四日・【蕪村忌/ぶそんき】
酒十駄(樽二つが一駄)ゆりもて行(ゆく)や夏こだち
遅き日のつもりて遠きむかしかな
ほととぎす平安城を筋かいに
春雨にぬれつつ屋根の手毬かな
菜の花や月は東に日は西に
夏河を越すうれしさよ手に草履
鮒鮓や彦根の城に雲かかる
四五人に月落ちかかる踊りかな
これきりに径尽きたり芹の中
高麗舟(こまぶね)のよらで過ぎゆく霞かな
稲妻や浪もてゆえる秋津島
さしぬきを足でぬぐ夜や朧月
旧暦、十二月二十四日は、
俳諧師であり画家の与謝蕪村の忌日です。
俳号は蕪村の他に「宰鳥」・「夜半亭(二世)」など、
画号は「春星」・「謝寅(しゃいん)」など。

享保元年(1716年)~天明3年12月25日(1784年1月17日)
もぅ~、偉大すぎてどこから説明すれば良いのかわかりません[笑]
略歴はこんな感じです。[サントリー美術館/若冲と蕪村のモノ借用]
大坂の農家に生まれ、20歳頃に江戸へ出て俳諧を学びます。
27歳の時、俳諧の師匠の逝去を機に、北関東や東北地方をおよそ10年間遊歴します。
その後40歳頃から京都へうつり俳諧と絵画のふたつの分野で活躍しました。
松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、
江戸俳諧中興の祖と言われています。
芭蕉~蕪村~子規と連なる、
三大俳聖[私のの勝手な]と言っても、
過言ではアリマセン。
蕪村がいなければ、
現在の俳句の隆盛はありえないでしょう。
また、俳画の創始者でもあり、
それゆえに、俳句と絵の融合を行い、

写実的とも絵画的とも称される、
俳風を作り上げます。
さらに、
マンネリで俗物的な傾向にあった、
当時の俳諧を否定しながら、
『蕉風回帰』を唱え、
絵画用語である『離俗論』を句に適用して、
いわゆる天明調の俳諧を確立させた、
一番の功績者であります。
後に正岡子規は、
蕪村の俳諧革新に大きな影響受け、
明治の俳句大改革を行います。
子規の著書に『俳人蕪村』(講談社文芸文庫)があります。
【蕪村忌】&「春星忌」
蕪村忌に呉春が画きし蕪かな/正岡子規
蕪村忌や画中酔歩の李太白/水原秋櫻子
蕪村忌の心游ぶや京丹後/青木月斗
蕪村忌やをんなのすこし着飾りて/黒田杏子
鷹の羽を拾ひ蕪村の忌と思ひ/萩原麦草
母の句に甘き選者や春星忌/安住敦
街騒を潮騒と聴き蕪村の忌/鍵和田釉子
で、蕪村の代表的な句・・・、
う~ん、名句が多すぎて絞れない。
でで、俳諧味溢れる句を幾つか。
化けさうな傘かす寺のしぐれかな
河童(かわたろ)の恋する宿や夏の月
酒を煮る家の女房ちよとほれた
河豚汁のわれ生きている寝ざめ哉
嵐雪とふとん引き合ふ侘寝かな
甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋
ででで、有名な句を幾つか・・・。
ゆく春やおもたき琵琶の抱きごころ
やぶ入りの夢や小豆の煮えるうち
牡丹散りて打かさなりぬ二三片
畑うつやうごかぬ雲もなくなりぬ
五月雨や大河を前に家二軒
夕風や水青鷺の脛をうつ
不二(ふじ・富士山)ひとつうづみ残して若葉かな
朝顔や一輪深き淵のいろ
月天心(つきてんしん)貧しき町を通りけり
白露や茨の刺にひとつづつ
山は暮れて野は黄昏の薄かな
椿落ちてきのふの雨をこぼしけり
あ~、なんて素晴しい、
きりがないのでやめますが、
すべて映画のワンカットのようでありますネ。
最後に、
蕪村の辞世の一つといわれている一句を・・・・。
「白梅に明くる夜ばかりとなりにけり」

機会があれば蕪村の俳画についてもお話しましょう。

作家、葉室麟氏、死去。
葉室麟氏が亡くなった、66歳。
「銀漢の賦」・松本清張賞
「蜩ノ記」・直木賞
素晴しい作品でした。
「鬼神の如く/黒田叛臣伝」で、
第20回司馬遼太郎賞を受賞されたとき、
「司馬さんの名前を冠した賞を頂き、夢のようです」
と、語られたのが心に残っている。
残念。
「津軽双花」読まなくちゃ。
合掌