映画三昧から落語三昧。
観た観た、今年に入って23本。
年末から数えると約40本・・・さすがに、
おめめが痛くなったWA、だははははははは。
で、昨日(1月8日)は、
昼から落語DEございましたぁぁぁぁぁぁ。
耳だけでOKっすからネ。

三代目、古今亭志ん朝。

1938年3月10日~ 2001年10月1日
もう、やめられませんヨ、素晴しい♪
元祖カリスマ、至高の芸人、三代目志ん朝。
談志よりも一年早く真打に昇進した、
これが後の落語会を築き上げるワケです。
「明烏」
「居残り佐平次」
「火焰太鼓」
「お直し」
「抜け雀」
「愛宕山」
「化け物使い」
「三方一両損」
「今戸の狐」
「文七元結」
立川談志に「唯一金を払ってみたい落語家」と言わしめた落語家。

ただ志ん朝が志ん生に成らず亡くなったのは、
本当に残念だったと思うのは私だけではないはず。
『綺麗な芸を残して見事に死んだ。結構でしたよ。』by立川談志
1/9・本日・【青々忌/せいせいき】
日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり
風呂吹にとろりと味噌の流れけり
角力取若く破竹の名を成せり
この国に恋の茂兵衛やほととぎす
かの岡に稚き時の棗かな
山吹の水を引きたる苗代田
年玉やかちかち山の本一つ
石段にのる事二尺春の潮
暁や北斗を浸す春の潮
鞦韆にこぼれて見ゆる胸乳かな
一月九日。
関西俳壇の雄、
松瀬青々/まつせせいせいの忌日です。

明治2年4月4日(1869年5月15日)~ 昭和12年(1937年)1月9日
松山発行時の「ほととぎす」第4号にて虚子選に入選。
正岡子規の「明治三十一年の俳句界」、(『ホトトギス』1月号)にて「大阪に青々あり」と賞賛を受ける。
1901年「寶船」を創刊・主宰・・・休刊後、青々の個人誌として「倦鳥」を創刊・主宰。
古屋秀雄、右城暮石、細見綾子、野田別天樓を育てた。
初期には与謝蕪村に傾倒のちに芭蕉に傾倒し古季語、難季語を意欲的に詠んだ。
では、青々の句を幾つか。
ふらここや少し汗出る戀衣
夕立は貧しき町を洗ひ去る
山吹の水を引きたる苗代田
早乙女は乳まで降りのぬれとほり
桃の花を満面に見る女かな
かくれ家は藤の葉毎に蝉のから
穴生寺や涅槃に着する夏布団
短夜の浮藻うごかす小蝦かな
蒼茫に冨士をさがしつ明易き
貝寄風や愚な貝もよせてくる
夏艸の花のあたりに蝉の穴
寒牡丹凍の中にて酔顔に