「英雄たちの選択」Jカップ杉浦友紀の誘惑?
なぜか、過去を省みても、後輩Aの元カノは全員普通の胸。
奥さんも標準サイズ?そのあたりがヨクわからんのだが・・・。
現実と理想は違うのか?しかし、ウルトラスーパーおっぱいマニアである。
あ、ココで言っておきたい、
すべての男性が巨乳好きではない、
と、言う事、を、ネ、まじデス。
私なんかは、どちらかと言うと、
Bクラス、いやいや、Aでも・・・、
え~、そんなコトはどぅ~でもイイ。
その、おっぱい星人Aとの会話。
A『オグリンさん、歴史好きですよね~』
私「なんだよイキナリ?」
A『NHKの英雄たちの選択は見ていますか?』
私「う~ん、たまにね、ヨソでね」
A『あ、オグリンさん、まだTVないんですか?』
私「うん、たぶん、ずっとないと思うよ」
A『じゃぁ~、どっかで見てくださいヨ、新しいアシスタント』
私「あれ?変わったんだっけ?」
A『はい、杉浦友紀アナに、この人が超凄いんですよぅ~』
私「何?巨乳なの?」
A『そうなんですよぅ~、参勤交代の回が特に凄いです、強調されて』
私「へぇ~そうなんだぁ~」
A『オグリンさん、あんまり興味ないみたいですネ』
私「いやいや、そんな事は、はぁ」
で、この、英雄たちの選択To言う番組は、
NHKの歴史番組の中でも群をぬいて良いのです。
司会の磯田道史氏が超凄い人物。
歴史学者であり、古文書のスペシャリストであり、映画の原作も多数。
そしてレギュラーコメンテーター&ゲストレコメンテーターに、ほぼハズレがナイ。
ちなみに、私が、大大大好きな、脳科学者の中野信子先生もけっこう出演されています。
ネットでも見れたりしますが、
友人某がTVのHDに録画しておいてくれて、
定期的に面白そうな企画を抜粋して見ています。
で、後輩Aのオススメの回は、
『参勤交代を緩和せよ! 松平春嶽 幕政の根幹に物申す』
で、ありました。

はい、いつのまにか、
渡邊佐和子アナから杉浦友紀アナへと変更になっていました。

う~ん、確かに杉浦友紀アナは、
セクシーな美人アナと言うジャンルで良いでしょ(笑)。
後輩Aが大はしゃぎスル、大きなお胸でございます。
それがどうした?
はい、その通りでゴザイマス・・・オチはありません。
11/21・かきフライの日。
2011年11月21日・七代目立川談志no命日。
11/21日・八一忌、秋艸忌、渾斎忌。
八一が養女キイ子を追悼した歌です。
太平洋戦争で、二人は私の地元近郊に疎開しており、
終戦直前に、33歳の養女キイ子を病気で失います・・・。
彼女も八一も、無念でありましたでしょう。
八一の慟哭の歌を読んで、娘の父親として、ホロリと涙ぐみました。
『ひそみきて たかうつかねそ さよふけて ほとけも ゆめに いりたまふころ』
本日は、郷土の歌人・俳人・書家・美術史家の會津八一の命日です。

1881年(明治14年)8月1日~1956年(昭和31年)11月21日
雅号は、秋艸道人〔しゅうそうどうじん〕、渾斎。
八一は中学生時代から俳句や短歌を創作し、特出した才能で、
なんと若干二十一歳の若さで、ローカル新聞社の俳句選者となります。
同時に俳句結社をつくり、同人誌を創刊・主宰。
また、子規の俳句&短歌の大革新に共鳴し、
中学を卒業すると同時に上京し、子規と交流します。
子規に良寛を知らしめたのは、八一の大きな功績です。
八一の俳句・短歌のバックボーンは、
万葉集、新潟の風土、良寛、そして子規だと断言したい。
1948年、早稲田大学名誉教授。
1951年、新潟市名誉市民。
八一の歌は、ひらがなだけで書かれており、全国で歌碑となっております。
一生独身で過ごした会津八一の背景は、
青年期の大失恋と生家の没落のWが要因のようで・・・。
しかし、これが契機となり、奈良へ旅行して美術に目覚め、
その結果、短歌に傾倒し、『南京新唱』の創作にいたるワケDEあります。
「かすがのに おしてるつきの ほがらかに あきのゆふべと なりにけるかも」
では、八一の句を少々・・・八一の俳号は八朔郎。
ゆく春や水に雨降る信濃川
大いなる雲落ち来る夏野かな
片なびくビールの泡や秋の風
つみ上げし白き髑ろか雪の峯
あさ寒や妙高の雪みな動く
俳居士の高き笑や夜の雪
冬籠或は留守といはせけり
凩や雲吹き落す佐渡の海
短歌のほか、一茶の研究、俳論など。
詳しくはこちら→『會津八一記念館』
昭和44年11月21日・波郷忌・惜命忌・忍冬忌。
「俳句は境涯を詠ふものである」
「俳句の鑑賞は創作なり」
バスを待ち大路の春をうたがはず
吹きおこる秋風鶴をあゆましむ
風呂吹に機嫌の箸ののびにけり
霜柱俳句は切字響きけり
雁やのこるものみな美しき
がうがうと欅芽ぶけり風の中
春嵐屍は敢て出でゆくも
朝顔の紺の彼方の月日かな
うそ寒きラヂオや麺麭(めんほう)を焦がしけり
亡き母の石臼の音麦こがし
われら一夜大いに飲めば寒明けぬ
六月の女すわれる荒筵
吹き起こる秋風鶴をあゆましむ
西日中電車のどこか掴みて居り
槇の空秋押移りゐたりけり
勿忘草わかものゝ墓標ばかりなり
照りそめし楓の空の朝曇
風搏つや辛夷もろとも雜木山
11月21日は、石田波郷の命日です。

1913年(大正2年)3月18日~1969年(昭和44年)11月21日
水原秋桜子に師事。
「馬酔木」同人、「鶴」創刊・主宰。
加藤楸邨、中村草田男、篠原梵と、人間探求派と称された。
韻文と切字を重視し、初期は叙情的、後期は自己の内面(主観)を見事に詠んだ。
戦中に結核を発病し、生涯、手術と入退院を繰り返す。
≪秋の暮溲罎(しょびん)泉のこゑをなす≫
1942年3月、吉田安嬉子(石田あき子)と会い、6月に結婚。
また同月に「馬酔木」同人と編集を辞退。
その時の決意の句?<初蝶や吾が三十の袖袂>
戦後、西東三鬼らと協力し現代俳句協会設立に尽力した。
【波郷忌】及び、波郷を偲ぶ句。
波郷忌の障子明りに近く座し/藤田あけ烏
波郷忌の風の落ちこむ神田川/秋元不死男
波郷忌の香港に酒つつしまず/森澄雄
侘助や波郷破顔の大写真/水原春郎
秋深き波郷の椅子に座りけり/長谷川櫂
波郷忌の青空鵯の声しきり/皆川盤水
初霜といふ菓子ひとつ波郷の忌/片山由美子
波郷忌をけふに露抱く巖は碑に/中原道夫
波郷忌のけふ止まり木にゐてひとり/角川春樹
波郷の棺担ぐ桂郎時雨くる/高島茂
波郷忌の萩も津和野も日照雨かな/岡山裕美
波郷忌の忘恩の膝くづしけり/西田もとつぐ
波郷忌や冬薔薇園のまん中に/神蔵器
寒椿ふふみ初めたり波郷の忌/間宮あや子
焼芋と白湯の香に立つ波郷亡し/原裕
波郷忌のはや暮れなづむ実むらさき/石田あき子(波郷の妻)
晩年の波郷の句が苦手だという人は実は多い。
主観的でありながら感動よりもリアルな冷徹な視点だ。
自己観察と言えばよいか・・・。
七夕竹惜命の文字隠れなし
万愚節半日あまし三鬼逝く
栗食むや若く哀しき背を曲げて
紫陽花や帰るさの目の通ひ妻
芍薬や枕の下の金減りゆく
雪はしづかにゆたかにはやし屍室(かばねしつ)
泉への道遅れゆく安けさよ
今生は病む生なりき烏頭
霜の墓抱き起されしとき見たり
麻薬打てば十三夜月遁走す
七夕竹惜命の文字隠れなし
梅の香や吸ふ前に息は深く吐け
俳句といふものは、何しろ十七字といふ短いものですから、散文のやうな意を尽して叙べきはめるといふことはしません。句によっては二通りも三通りもの解釈ができる場合もあります。勿論作者は一通りにしか表現してゐないつもりなのですが、省略や抽象によつて、さういふ解が生れるのです。作品は作者を離れて一人歩きをします。二通りに解釈ができて、両方の解とも句をよく生かしてゐるのであれば二解があつてよく、時には作者の意図とちがつた解の方が世間で通用することもあります。作者としては不見識な話といふことになりますが、私はさういふこともあつてもよいと思つてをります。