雪が全然無くてて良い、で、梅見も近い・・・。
まだまだ春の予感なんて・・・。
二月三日が節分。
二月四日が立春です。
旧暦の2月は、如月/きさらぎとよばれました。
その他、絹更月、衣更月などとも・・・・。
二月の異名は多く・・・。
殷春/いんしゅん、初花月/はつはなつき、雪解月/ゆきとけつき、雪消月/ゆききえつき。
そして、梅見月/うめみづき。

梅見(観梅)・・・春の季語デス。
立春前なので春の季語は、ちょっと早いのだけれど、魁ます。

ことしもまた梅見て桜藤紅葉/井原西鶴
御秘蔵に墨をすらせて梅見哉/宝井其角
さむしろを畠に敷て梅見かな/与謝蕪村
さらさらと衣を鳴らして梅見哉/夏目漱石
青空のいつみえそめし梅見かな/久保田万太郎
うすうすと酔うたる人と梅見かな/禅京子
懐に燗カップ酒梅見かな/小栗釣月
早く、暖かくなってほしいなぁ。
二月礼者とは、たぶん、死語DEありましょう。
今日から、二月です♪
2/1・本日・【碧梧桐忌/へきごとうき】寒明忌。
赤い椿白い椿と落ちにけり
愕然として昼寝覚めたる一人かな
千編を一律に飛ぶ蜻蛉かな
雪チラチラ岩手颪にならで止む
から松は淋しき木なり赤蜻蛉
この道の富士になりゆく芒かな
春寒し水田の上の根なし雲
三日月やこの頃萩の咲きこぼれ
出羽人も知らぬ山見ゆ今朝の冬
冬枯や墾(ひら)き捨てたるこのあたり
旅にして昼餉の酒や桃の花
本日、二月一日は、
「子規門下の双璧」の一人、
河東碧梧桐の忌日です・・・。
子規は、
碧梧桐と虚子について、
「虚子は熱き事火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し」と評した。

1873年(明治6年)2月26日~1936年(昭和12年)2月1日
同郷の正岡子規に師事。
俳句を学ぶキッカケは野球、誘ったのは高浜虚子。
1902年(明治35年)に子規が没すると、
新聞『日本』俳句欄の選者を子規より受け継ぐも、
「ホトトギス」を買い入れた高浜虚子に対抗してか、
新傾向俳句に走るが・・・私的には成功したとは思えない。
しかしながら、当時の商業的な高浜虚子の、
客観写生主義や花鳥諷詠を礼賛する気も毛頭ナイ。
また、荻原井泉水と、自由律俳句誌『層雲』を主宰・創刊するも、
井泉水と意見を異にし、層雲を去り、俳誌『海紅』を主宰・創刊。
【碧梧桐忌・寒明忌】
たそがれて碧梧桐忌の済みにけり/妹尾健
二月先づ碧梧桐忌や畑平ら/泉天郎
碧梧桐の忌なり墨汁飛び散つて/内田美紗
碧梧桐忌法外な寒ンもたらせ/ 高澤良一
今昔をけふも読み居り寒明忌/瀧井孝作
白鳥の吃水ふかき寒明忌/鈴木裕之
高浜虚子の碧梧桐への追悼句
『たとふれば独楽のはぢける如くなり』
この独楽は、当然、俳論で火花を散らした、
碧梧桐と虚子の二人を模した、喧嘩独楽であろう。
俳壇で徹底的に戦いあった二人であるが、
プライベートでは、幼馴染のままの交際が続いたと言う。
二つの喧嘩独楽の一つが倒れ伏した、
さすれば、もう一つの独楽も、倒れ伏すのみである。
碧梧桐の自由律俳句は、あまり好きではないが・・・、掲載。
撲乗せし便船のなど時化となり
ミモーザを活けて一日留守にしたベットの白く
曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ
子規庵のユスラの実お前達も貰うて来た
灯あかあかと会すれば千鳥鳴くといふ
自由律俳句結社「海紅」は、創刊100年を越え、今でも盛んである→『海紅』