末法の世じゃ、お寺のボッタクリ。
私の墓仕舞いの話に嫌な顔をせず冷静に相談を受けてくれた。
そしてあれこれの費用も良心的な金額の提示だった。
あとは、戦死者の墓などこちらサイドの問題でありますが・・・。
で、我が家のお寺様のような、良心的なお寺ばかりじゃナイのであります。
某日、某所、後輩某。
後輩某『オグリン先輩の墓って何人入ってるんですか?』
私「は?いきなりどういう事?」
後輩某『ですから、お墓に、何人埋葬されているんですか?』
私「え???、どうして」
後輩某『先輩ぃぃぃぃ、教えて下さいよ~』
私「はぁ~?100人はいないとおもうけど、軽く50人はいるなぁ~」
後輩某『じゃぁ、1000万だ』
私「え?なになに?」
後輩某『オグリン先輩のトコ墓仕舞いするって言ってましたよね』
私「うん、そうだよ」
後輩某『いくらかかる予定ですか』
私「お墓の処理に業者へ〇〇万ほど、お寺様に〇〇万ほど、かな」
後輩某『えぇぇぇぇぇぇぇ』
私「え?高いの???」
後輩某『いやいやいやいや、激安ですよ』
私「うん、確かに安い、私が調べた相場以下だと思うよ」
後輩某『実は、嫁の実家が墓仕舞いしたいからと、◇ソ坊主(本人の言ったとおりに忠実に・笑)に相談したんだそうですよ~』
私「うんうん」
後輩某『そしたら、その◇ソ坊主に、お墓には何人入っていましたか?と聞かれたんですって』
私「うんうん」
後輩某『嫁さんのオフクロさんが、五人ですって答えたら』
私「答えたら?」
後輩某『一人二十万ですから百万円ですとキッパリ言われんですと』
私「えぇぇぇぇえ、それは、ボッタクリとしか言えない・・・」
後輩某『その理論でいくと先輩トコなら1000万円ですよ』
私「そういう理屈になるなぁ」
後輩某『どうにかなりませんかネ』
私「お墓は寺の敷地内にあるの?」
後輩某『いえ、村営の墓地ですけど』
私「じゃ、わりきってしまえ、別なお寺に頼むしかない」
後輩某『そんな事できるんですか?』
私「理論的にはできるけど、問題は心の持ちようだよね、義理のお母さんのサ」
後輩某『と、言うと・・・』
私「義理のお母さんはナメラレテルと思う、お寺と喧嘩する気でかからないといけない」
後輩某『はぁ』
私「先祖が世話になったという気持ちも捨てないといけない」
後輩某『はぁ』
私「義理のお母さんに兄弟とか頼れる親戚はいないの?」
後輩某『実家は関西なんですよ、そして妹だけみたいで』
私「なるほど、では無理だね」
後輩某『そうなんです』
私「我が家のお寺様と嫁さんの実家のお寺と宗派は同じだね、なのに十倍近い格差がある、値段などあってないようなモノさ」
後輩某『はい、ですね』
私「お墓の解体業者に頼んでも必ずお寺経由でと言うはずだよ」
後輩某『あ、その◇ソ坊主、解体もすべての段取りも任せてもらわなくては困るって言ってたとか』
私「でしょ、そう言うことなんだよね、だ・か・ら・そのボッタクリの寺と喧嘩してくれるお寺様を探さなくちゃいけない」
後輩某『どうすれば?』
私「まずは、おまえのトコのお寺に相談したら?何か良いアイデアがあるかもしれない、たまたま宗派も違うしさ」
後輩某『で、なんて言えばいいんでしょうかネ』
私「そんなの正直に言うのさ、で、おまえの親も連れてけばイイよ」
後輩某『はぁ』
私「日常的にお寺ではよくアル問題だと思うよ」
後輩某『そうなんでしょかね』
私「そうそう、それから、墓仕舞いやめましたってのもイイさ」
後輩某『え?どう言う事ですか?』
私「だってそのまま継続すれば檀家料だけでイイんでしょ?」
後輩某『そうなりますね』
私「で、オフクロ様が亡くなったら考える・・・」
後輩某『でも・・・』
私「その頃には、その、ボッタクリ坊主もこの世にいないって、また、状況も変わるよ」
後輩某『なるほど』
私「もっと過激な方法もアルけどサ」
後輩某『あるんですか?』
私「でも、最初は穏便にいってみては」
後輩某『そうですね』
私「上手くいけば両家の絆もさらに深まる」
後輩某『はい』
私「君の株も上がる」
後輩某『はい』
私「頑張れ」
後輩某『頑張ります』
しかし、一人二十万とは・・・。
なんとも、なぁ。
お釈迦様でも驚くぞ。
正に、末法の世、金の世の中ですわい。
じゃんじゃん。
旧暦・十一月十九日・【一茶忌】
雀の子そこのけそこのけお馬が通る

我ときて遊べや親のない雀
名月をとってくれろと泣く子かな
めでたさも中位なりおらが春
これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺

旧暦・11月19日は、小林一茶/こばやしいっさの忌日です。
江戸時代を代表する俳諧師の一人・・・・。
別号、一茶坊・二六庵・俳諧寺など。
宝暦13年5月5日(1763年)~文政10年11月19日(1828年)
25歳のとき小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学びます。
正岡子規、曰く・・・「俳句の実質に於ける一茶の特色は、主として滑稽、諷刺、慈愛の三点にあり。」
また、父の発病から死までを描いた『父の終焉日記』は、私小説の先駆けとも言われています。
作風は蕪村の天明調に対して、一茶の化政調と呼ばれています。
冷静に生死を見つめつつ、自虐的で、自然且つ素朴に農村の風景を詠いました・・。
特に小さい生き物へ眼差しは暖かい・・・・。
雪とけて村いっぱいの子どもかな
春めくややぶありて雪ありて雪
大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
やせ蛙まけるな一茶これにあり
蟻の道雲の峰よりつづきけん
大蛍ゆらりゆらりと通りけり
焼け土のほかりほかりや蚤さわぐ
仰のけに落ちて鳴きけり秋の蝉
秋風に歩いて逃げる蛍かな
椋鳥と人に呼ばるる寒さかな
ともかくもあなたまかせの年の暮
【一茶忌】
いなご香ばしく煮たのも信州もう一茶忌のころ/荻原井泉水
飄々と雲水参ず一茶の忌/飯田蛇笏
一茶忌や父を限りの小百姓/石田波郷
貧すれば鈍の一茶の忌なりけり/久保田万太郎
一茶忌の雀の家族焚火越す/秋元不死男
歯の欠けし男饒舌一茶の忌/富澤赤黄男
夕暮れて母呼ぶ声や一茶の忌/水野あき
善人にあらぬ生き方一茶の忌/小栗釣月
一茶の句はいまでも発見されています。
最新の句は。。。。。ちるひとつ咲のも一つ帰り花(2013年11月)
そうそう、藤沢周平も一茶を書いてます。
詳細は興味があれば私の過去のブログを→2010-10-20・藤沢周平の『一茶』を読む。