3/3・本日・【立子忌(たつこき)】+「雛祭」
三月三日。
「雛飾りつつふと命惜しきかな/星野立子」
本日は、星野立子の命日デス。

1903年~1984年・昭和五十九年没。
八十歳。
高浜虚子の次女。
夫は星野天知の子息、星野吉人。
中村汀女、橋本多佳子、三橋鷹女とともに四Tと称されました。
昭和二年頃、早くも「ホトトギス」で頭角を現します。
昭和五年(1930年)六月、父に勧められ俳句雑誌「玉藻」を創刊、主宰者となります。
当時は前代未聞・・・女性で初の主宰です。
父、高浜虚子の才能を一番受け継いだのは立子に間違いないでしょう。
実は、創刊の昭和五年の二月に長女の椿を生んでいます。
青梅や我になじまぬ吾子背負ひ
父親は、高野素十(昭和六年・別の女性と結婚)と言う事らしいが・・・なぜ二人は結婚しなかったのだろうか?
素十ほど、虚子に愛された弟子はいない、そして立子も同様なのですが・・・不思議な話なのです。
立子の俳誌、「玉藻」第二号で、創刊の祝意を虚子が述べた有名な言葉。
「高き意味の写生──最も正しき意味の写生に精進を、「玉藻」の立子や若き俳人に俟(ま)つ。」
「玉藻」を創刊の翌年、昭和六年は「ホトトギス」の周辺がキナ臭くなります。
水原秋櫻子が高野素十を相手に論争を仕掛けて「ホトトギス」を飛び出します。
100人以上の会員を引き連れて行きました、反旗を翻したんですね~。
さらに秋櫻子は、「客観写生」を公然と批判して、「ホトトギス」の存続を脅かします。
続いて、昭和十年には山口誓子が、四Tの一人の橋本多佳子を連れて「ホトトギス」を離脱する事になります。
虚子は離脱者が増える事を恐れました。
立子のライバルの女流俳人が生まれる事も恐れました。
中でも杉田久女を一番恐れたようです。
「ホトトギス」から女流俳人をかっさらって出て行くのではと考えたようです。
虚子は、立子を脅かす久女の句集出版を許さず、突然、彼女を「ホトトギス」から昭和11年に除名します。
「清艶高華」とまで称した弟子をです・・・久女は不遇の内に病没します。
「ホトトギス」王国に暗雲が立ち込めます。
最大の犠牲者は杉田久女かもしれません。
【立子忌】
虚子の亡き立子の日々や立子の忌/今井千鶴子
立子忌や岳の風神まだ眠る/市川弥栄乃
立子忌や笹目の一日なつかしく/深見けん二
立子忌の坂道どこまでも登る/阪西敦子
立子忌を悲しみとせぬ日は何時に/稲畑汀子
立子忌を重ねて今年つる女亡く
紫の人ともいはれ立子の忌
表紙絵も玉藻雛や立子の忌
三句とも、星野椿。
では、本人の句を幾つか。
昃(かげる)れば春水の心あともどり
吹き立ちし睡蓮の葉しづまりぬ
重き雨どうどう降れり夏柳
烏瓜夜ごとの花に灯をかざし
訪へば子沢山なり梅雨の宿
花葵西日さし抜け一軒家
桃食うて煙草を喫うて一人旅
夕月夜人は家路に吾は旅に
寒しとはこの世のことよ墓拝む
辞世句。
「父が附けしわが名立子や月を仰ぐ」
【鎌倉虚子立子記念館HP】
草の戸も住み替る代ぞ雛の家/松尾芭蕉

私も娘達が幼い日には、お雛様を飾り雛祭をしたものです、とても懐かしいです。
大きな苺がのったケーキを頬張る娘達を想い出します(笑)。

厨房に貝が歩くよ雛祭/秋元不死男
ひらがなでおひなまつりに誘はれし/木村茂登子
髪止めの蝶やいちごや雛祭/服部早苗
ぽつてりと白雲一つ雛祭/中野京子
初雛を飾り初児を前に置く/鈴風まさこ
お雛様飾らぬ今朝の古畳/小栗釣月
雛祭りの夜は毎年恒例。
白ワインにて娘達の健康を祈ります。
あ、俳句のお師匠様の誕生日でもあります。
今年は会いたいですね。