旧暦の十月は、神無月です。
いわゆる、旧暦の中秋、秋のド真中。
で、明日が新月。
でで、旧暦の十月、本来の神無月の一日は、新暦十一月十五日デス。
こんなに違うんですよネ~、新暦と旧暦。
ゆえに、神無月は秋ではなくて、冬の季語と言う事になるんですが・・・。
神無月故郷の母を永久に待つ/小栗釣月
十月に私を生んでくれた母は鬼籍の人です。
母の居ない故郷はもう故郷とよべないかもしれません。
で、神無月(笑)のお話。
名称の由来は、諸説アリマスが、神を祭る月・・・・神な(な=の)・月が最有力です。
他、十月には、全国の八百万(やおろず)の神々(いわゆる神道の古の神々)が出雲大社(いずもおおやしろ)に集まり、諸国に神様がいなくなることから『神無月』になったとする説がありますが、中世以降の後付けの俗説で、出雲大社の御師(おし・おんし)が全国に広めたのだと言われています。

しかし、俳句の世界ではロマンチック?な、後の説をとりあげております(笑)。
しつこいですが、旧暦の十月ですから、【冬】の季語ですネ、【神の留守】などとも、言います。
で、八百万の神々が集結する出雲のお國では、『神無月』とは呼びません。
だって神々がいらっしゃるワケですから。
でで、出雲のお國では、十月を、【神在(有)月/かみありづき】と言います。

ででで、神々が出雲に集まる最大の目的は、縁結びの相談のためとされています。
それゆえ、新潟県の佐渡では十月の縁談を避ける風習があったと言われています。
この時期に吹く西風を、神渡し・神立風などと言います。
留守のまに荒れたる神の落葉哉/松尾芭蕉
へそくりを妻に奪られし神の留守/阿部静雄
神の留守夜のしじまを暴走車/正木光子
箒目を殊更立てて神の留守/泉田秋硯
日時計の少し遅れて神の留守/小栗釣月
神在月大社の鈴の鳴り止まず/河井史
神有の佳き日水脈引く婚の舟/和田森早苗
神有の出雲は神の雑魚寝かな/稲岡長
神在りの地へ左遷され恋逃がす/品川鈴子
神在りの篝火天を眠らせず/小栗釣月

出雲大社(いずもおおやしろ)のHPは、ココをクリック→[出雲大社]
皆様に良いご縁がありますように。
父母も神も永らく留守であり/小栗釣月
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さえきサン、こんばんわ。
さえきサン、前にもそのように。
ご先祖様は神官だったのでは?
>神光満殿・・・。
>これですね。
はい、これですよ。
遍く一切に降り注ぐ光の源デス。
>話はガラッと変わりますが、俳壇には季語を新暦に合わせようという動きはないのでしょうか?
まったく無いワケではありませんが・・・。
結論から言うと、俳句の世界はバラバラの好き勝手。
短歌のように何とか派と言うものがありません。
近代短歌の源流をアララギ派とするならば、近代俳句の源流はホトトギスです。
長くなるんでハショリますが、沢山の俳句結社にまとまりがありません。
また協会が多過ぎます、以下ざっと。
新俳句人連盟
現代俳句協会
俳人協会
全国俳誌協会
日本伝統俳句協会
などなど
考え方がまったくと言ってイイほど違います。
そして、1000を超える俳句結社が独自のルール?で活動しています。
他、角川のなんとか賞のなんたら閥とかもあり、どぅ~にもこぅ~にもなりません。
また、たいていの俳句結社が世襲で、新宗教みたいになっています。
いわゆる、権威主義、さらには、のれん分けの家元制度的なモノも多数存在して、893みたいに上納金制度もあります。
>全くそういう議論すらあり得ないのか、それとも口に出すことすらタブーなのでしょうか。
一部で議論されていますが・・・今世紀では無理だと思います。
で、季語の概念も新暦にしてしまうと大きく変わってしまうんですね。
中秋の名月は、どうしても、旧暦の八月十五日でなくてはならないのです。
それを新暦とすると大混乱ですね。
まず、歳時記の見直しからでしょうけれども、この歳時記も出版社によってマチマチ。
あ~、どうにもこうにもなりません。
俳壇は矛盾の世界です。
日常を詠めと言っておきながら、非日常感が半端ないです。
ちなみに、私の師匠が一切協会などに属しませんでしたので私もそうしています。
答えにならなくてスイマセン。
No title
神光満殿・・・。
これですね。
話はガラッと変わりますが、俳壇には季語を新暦に合わせようという動きはないのでしょうか?
全くそういう議論すらあり得ないのか、それとも口に出すことすらタブーなのでしょうか。
以前からオグリン♪さんに聞いてみようとは思っていたのですが、なかなか踏み切れませんでした。
今宵は既にしたたかに酔っぱらっているので、失礼は承知の上で思い切って聞いてみました。
どうかお許しください。