12/31・本日・【中塚一碧楼/なかつかいっぺきろう】の命日。
小母さん自由党をいふ春のうすい日ざし地に照る
浅蜊そのほかの貝持参共産党支持のこの友
敗戦翌年(1946)春の一碧楼の句。
国民の政治にかける世相をありなままに詠んだ。
女性参政権がはじめて認められた選挙であり、民主主義と言う言葉が盛んに使われはハズ。

1887年(明治20年)9月24日~1946年(昭和21年)12月31日
早稲田大学時代、飯田蛇笏に兄事。
後、河東碧梧桐に師事、新傾向俳句運動の『日本俳句』に傾倒。
で、碧梧桐が荻原井泉水らと出版する自由律俳誌『層雲』には参加せず、
自作の句集を出版後、1915年(大正4年)碧梧桐を主宰として俳誌『海紅』(かいこう)を創刊。
のち碧梧桐が海紅を去り一碧楼が主宰者となる。
日本語の文章を文語から口語へとする試みに尽力した。
平成の短歌は、ほぼ口語にシフトしたが、俳句は現在なおも文語が主流であり、ある意味、一碧楼の足跡を再認識するべきでアルと考えますが・・・さて?
ただ、わたくし、個人としては、俳句に季語を必須とするルールをほぼ否定する自由律句はあまり好まないのデス
クリスチャンである。
河東碧梧桐が出会ったときに、「半ば自覚せぬ天才の煥発である」と
春の夕靄立つ二つの橋を二つ渡った
春の宵やわびしきものに人体図
夜の菜の花の匂ひ立つ君を帰さじ
胴長の犬がさみしき菜の花が咲けり
秣の一車のかげでささやいて夏の日が来る
乳母は桶の海鼠を見てまた歩いた
単衣著の母とあらむ朝の窓なり
わたくしのあばらへ蔓草がのびてくる
明易き腕ふと潮匂ひある
げに蓬門炎天の一客を迎へ
草いきれ女人ゆたかな乳房を持てり
草青々牛は去り
刈粟残らずをしまつて倉の白い
赤ん坊髪生えてうまれ来しぞ夜明け
畠ぎつしり陸稲みのり芋も大きな葉
我死ぬ家柿の木ありて花野見ゆ
能登が突き出て日のてりながら秋の海
千鳥鳴く夜かな凍てし女の手
くろちりめんひんやりすあかがねひばち
ここに死ぬる雪を掻いてゐる
凍夜この山より山と山とかさなりてあり
山に雪山の根がずっと張ってゐるでもあらう
病めば蒲団のそと冬海の青きを覚え
魴鮄一匹の顔と向きあひてまとも
辞世の句
~病めば布団のそと冬海の青きを覚え~
俳句結社、「海紅」は、2015年3月には創刊100周年を迎え、今尚、盛んである。
詳しくはコチラ→自由律俳句結社「海紅」